我が在処
僕たちが≪人間≫と呼ばれるのは、人と、様々な事柄の間の中に自分を見出すからだ。
人との間、親がいるから子となり、
時との間、10月に生まれたから、10月生まれとなり、
場との間、日本に生まれたから日本人となる。
社会の間、役割に応じた言葉が与えられる。
閉じられた中にある自分は空っぽであり、
繋がりが、生に充実感を与える。
僕たちの生きがいや悩みは、≪間≫で起こる。
僕らは関係性の中で生きているから、
関係性が崩れると不安になる。
関係性が希薄になると孤独になる。
孤独は愛するものだ。否定したり、逃げたりしないことだ。
否定すれば主張してくるものだ。
逃げると追いかけてくるものだ。
自分の価値の所在が
社会やコミュニティなど有機的な場所にあることは
素晴らしいことだ。
しかし、有機的な場所は思いがけない事態によって
意に反して自分の所在が危ぶまれることがある。
他者が介在するからだ。
これを恐れる生き方は不自由である。
孤独を定義しなおしてみよう。
孤独とは有機的な場所(社会やコミュニティ)
つまり、他者との間で価値が見いだせないときに感じる
寂しさのようなもの
孤独を愛するには
人以外の≪他人に影響されないもの≫
とも積極的に繋がること。
趣味、知識、志、夢、目的など、
自分だけで守れる、確かなものを持つこと。
この発想はきっと寂しいものに感じるだろうが
逆だ。
こういった他者に依らない確かなものがあるからこそ、
恐れずに有機的な関係を新たに広げ、強固にすることができる。
このような姿勢で生きていたとしても
無意識に有機的な繋がりに重きを置くことだろう。
有機的な関係から、価値をもらおうとするだろう。
それでも構わない。
だが、ふとしたきっかけで感じる孤独を感じずにはいられないだろう。
自分との対話をすることだ。
自分自身から命の使い方を問われるだろう。
そしていろんなことを教わるだろう。
そんなちっぽけなプライドのために生きているわけじゃないことを。
お前は好かれるために生きているのか
馬鹿にされないために生きているのか
人と接すれば、傷つけたり、傷つけられたりするのは当たり前にある。
そこを完全に避けることはできない。
そこに敏感になっても仕方がない。
自分の命に意味付けできるのは自分だけだ。
どんな世界でも生きてやる覚悟を以て、自分の命に意味を与えること。
孤独はよき友になるだろう。