自分らしさを追求すると、自分が無くなったので、代わりに自分らしさを新たに定義してみました。
自分らしさや、自分の資質を考えることって、他との差異=価値を生み出す点で大切なことだとは思いますが、
自分らしさを追求をしてみると、自分というのが分からなくなってきます。
自分を追求するとは自分と、そうでないものを次々と分けていくことです。
一度分けてみます。
最初に浮かぶのは
自分の肉体 と それよりも外にあるもの[外環境]
自分の肉体は自分だと思いますが、よく考えてみると疑問です。
髪は自分なのでしょうか。
例えば抜け落ちた髪は、自分ではないですよね。
外からそれを眺めているから、眺められているものは自分ではない。
もし、腕が切り落とされたら、その腕は自分なのかどうか。
たぶん、違いますよね。眺める主体と、眺められている客体に分かれる。
客体は自分でないと。
そう考えると、肉体というのはただの物質で自分ではないのではと思うでしょう。
それじゃ精神は?というと、精神だけ取り出してみることができないのです。
肉体という物質を刻んでいっても精神は取り出せず、ついに私は死ぬでしょう。
精神は肉体に宿る。肉体を通じてしか精神を見る(感じる)ことはできない。
では、思想に自分が宿るならば、まったく同じ思想をしている人を用意したら、それは自分になるのでしょうか。
「自分」というのを切り詰めていけばいくほど、自分というものが確かなものではなくなっていきます。自分というものがないのに、自分を重んじさせようとする。これはなかなか面白いですね。
一度、自己紹介をしてみてください。
するとあなたは
名前、出身地、所属、家族、趣味を並べて、自分と結びつけるでしょう。
結びつけているだけですから、名前が自分なのでもないし、出身地が川越だということもあなたではありません。
あなたはこの世界とどういう関係を結んできたか、という説明しかできないのです。
それはあなたではないんですね。
自分らしさを僕が新たに定義する
自分探しという言葉が僕はあまり好きではないから、自分というのはどこかに落ちているわけでもない。あくまでキッカケの提供くらいでしょう。
それでもそのきっかけに惹かれたことが何かヒントになることは間違いあるまい。
自分が何に惹かれたか。何と関係を結ぼうとしたか。
そういう意志、選択に自分らしさに近いものがある。
その結果として今の自分の生きざまがある。
自分らしさとは、自分の内側と外側のすべて、身の回りすべての環境だと思う。
あなたの生きている世界が自分らしさです。
環境に不平不満があるのであれば、それは自分に対して抱いていることと同義です。
自分と関係のないものはない、自意識の外で繰り広げられる、悲しい出来事もうれしい出来事もあなたの中にあるもの。
自分の世界観を設定し、それを実現していく過程に、自分らしさが垣間見えるかもしれません。あなたの生きてる世界は、あなただけのものです。
シミュレーションゲームみたいな感じ。この世界はあらゆる可能性が同時に起こっていて、選択することで一つの世界が選ばれていく。
エンディングをどうするかはあなたの選択次第。それがあなたなんですね。